遠い故郷

庄原市  田中 虎市

シベリア抑留で連行された日本軍人七十万を
待っていたのは心も凍る零下四十度の世界
家畜の飼料にも劣る粗悪な食物が
満腹にはほど遠い腹三分にも及ばぬ逆境で
科せられる重労働は体力の限界を超えるもの

粗末な食物と寒さが原因ではじまった下痢
手当ての手段は無く二ヵ月三ヵ月と慢性化し
空き腹からほとばしる下痢便は
さながら水道の蛇口から噴き出す水のよう
六十キロの体重が四十キロを割り込んで
瘠せた体はさながら絵に書いた貧乏神のよう
今日も明日もと消える若い命は六万人

瘠せ衰えた体で山林の伐採作業に狩り出され
樹齢二百年の落葉松を小切ったものを
よろめく足で車寄せまで運び出すのだが
萎えた体には余りにも重かった
鉄砲ミミズへ群がる蟻のように
全員総掛りで取り組んでも
もたついて能率があがらない
怒ったソ連兵がなぜ働かないと銃を振り廻す
働かないのではない働けないのだ
半病人のような捕虜を酷使する理不尽さ
横暴に踏みにじられる日本軍人の誇り
だが抗うすべもない我が身の非力さ無念さ
やり場のない怒りに煮えたぎる心の坩堝
こんな目に逢うために国を出たのではない
見送りをうけた日の旗の波が切なく胸を噛む

故郷へ帰ったら地酒を酌み交そうでと
誓って支え合ってきた秋田出身の戰友も
衰弱の果て遂に寝たきりになった
くぼんだ眼窩に突き出た頬骨
それはも早や此の世の人の姿ではなかった
 一緒に故郷へ帰る約束じゃあないか
 しっかりせえよ と呼びかけながら
枯木のような手を握りしめても
握り返す力はなかった
 羽根が欲しいよ
 おふくろの所へ飛んで帰りたい
腹の底からしぼり出すようなかすかな声
あとはうわ言のようにおふくろを呼び続ける
閉じた目尻から涙が一滴すーっと糸を引いた
ああふるさとよなぜ遠い

朝食を運んで行ったら事切れていた
覚悟はしていたが 彼も遂に
次は自分の番かと思ったら
急に背すじに冷めたいものが走り
体は硬直して声も出ず立ちすくんだ

あれから七十年今も尚帰ることを許されず
弔う人もなく冷凍庫のような凍土に
空しく眠り続ける多くの戰友たち
彼等をこのような目に合わせたのは誰なのか
それが戰爭のせいだとするならば
国のためにと銃を取った私自身の罪なのか
自戒をこめて瞑目すればほほ笑み返すあの顔
思い出の戰友は瞼に老いぬまま

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