水田に向き合って
世羅郡世羅町 伊藤 陽康
照りつける日を受けて
草原のように広がる田んぼには
近づくものの気配に
水を濁して姿を隠すものがいる
分けつを続ける早苗は
締まった株と交錯する葉の
荒々しいカヤのように育ち
やがて受粉の時を迎えることだろう
人とイネとの最初の出会いは
どのように始まったのだろう
海をへだてた大陸のどこかで
はるかな先人たちは
似かよった草本の中から
命を支える伴侶を選び出したのだろう
この列島に住みついた私たちの先祖は
大陸から渡って来た人々から
イネを育てることを学んだ
二千数百年のイネとのつきあいは
この地を潤いのある山野に変え
多くの命を育むかたわら
水を治め結いを指揮する長と
富のかたよりを生み
支配するものと支配されるものの世の中へと向かわせた
支配するものは
逆らえない命令と富の力によって
民衆に防人の歌を歌わせ
その歴史の果てにあの二つの閃光を招いた
あの日
みずからの破たんを告げるラジオの声は
実りをひかえた稲田を渡った
村の溜池で泳いで帰る途中の少年は
立ち寄った家でそのことを知らされ
「つまらんのう」と一言つぶやいた
イネとは異なる世界に生きた人々が
長い歴史とともに培って来たものを
大きな犠牲と引き換えに受け取った私たち
その時この谷に連なる田んぼも
耕して来たものの手に移され
人々は貧困を脱する足掛かりをつかんだ
やがて私たちが豊かさを追い始めた時
新しく育った命は職場を求め街に向かった
田んぼを取り巻く人の輪が
小さくなって行く山里には
猪や鹿が姿を見せるようになった
今 イネは黄に色づき
乾いた株は重い穂を垂れ
刈り入れの時を待っている
イネとともに生きる道から
遠ざかりつつある私たち
イネを囲む輪を解いた時
同時に手放した大切なものとは何だろう
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